昭和五十七年一月三十日 朝の御理解

 x御神訓 「不浄のある時は先に断りおいて願いあることを頼めよ。」        

 合楽理念に基づきますと、この不浄という事はない事になります。例えば清濁一如と、清いものも汚いと思うておるものも一つだというのですから。今まで御粗末であったとか御無礼であったなあと、思うておった事はむしろ御礼を申しあげねばならないような事に自分の心を汚しておったと。えーだから合楽理念でいうと、ま、御粗末御無礼という事は言えますでしょうけれども。不浄という事はわからんのですが、二代金光様ですね。四神様は「お道でいう不浄とは成就せぬ事ぞ」と仰せられたそうですね。
 お道でいう不浄とは成就せぬ事。お互いの願いが成就しない。ですから、私共の願いがいちいち成就する、という事が、そんなら有難い事ではない、合楽理念をもってすると、願っても願っても成就しないで、という事がある。そういう事が不成かというと、それを例えば、場合には神愛の現われ、と見るわけですね。以前私の頂いているみ教えの中に、願っても願っても成就しない時は神の願いが成就している時、とさえ言われるのですからね。
 一心に、それこそ不乱に神様に願いを立てて、一生懸命お願いをする、お参りをするけれども成就しない。そういう時には神の願いが成就しておる時、だ、と。願った事が成就する、という事は真のおかげではない。むしろ願った事が右と願った事が左というような時ほど、神の願いが成就しておる時であって、ね。本当のおかげ、というのは夢にも思わなかった、というようなおかげが立ちはじめ現れた時初めて、本当のおかげじゃ、とこう仰る、ね。
 ですから四神様が仰る不浄とは成就せぬ事だ、と言われるけれども。私共の願いが、ね。いうなら合楽理念に基づいて願いおすがりをし、それにてなおかつ成就しない、という時には、いよいよ神様の願いが成就しておる時として、その不成もまた、御礼を申しあげねばならない事になります。ね。そこから、ま、夢にも思わなかったおかげが、ね、頂けてくるようになる。そういうおかげが真のおかげだと。
 私共はやっぱり信心、というか一つの観念から抜け切らないような場合がありますから、なかなか清濁一如の心など、というものはなかなかおいそれと頂けるもんではありません。まあだ信心のない人達は勿論ですけれども、信心があってもやっぱり不浄としてね。赤不浄とか黒不浄とか、とこう申します。それがやはり心にかかる。心にかかる時にはやはりそれを神様は咎めなさる、という事ではない。
 金光教の信心はまず自分の心に不浄を感じたならば、ね。先に断りおいて、とあるですね。先に断りおいて願いある事を頼め、と。今日は身体がこうやって汚れております、ね。所謂お葬式の帰り等というのはそれこそ塩で清めなければ家には入られん、と。やっぱ不浄という感じがする。ただそういう気持がまだある間はやはり、先に断りおいて、と仰るのです。ね。けども合楽理念に基づき信心の稽古をさして頂いておると、その辺の所が段々すっきりとしてくる、と思います。不浄とは願いが成就せぬ事だと、いう、まあ観点に立ますと。
 昨日はあのう、敬親会でございましたが、皆さん、一人一人発表をされました。もう本当にあのう、こんな年寄りの方達の会が、信心研修がある、というのはおそらく日本中で合楽ぐれな事だろうとまあ話した事でしたけれども。それぞれにもう八十、九十のお婆さん達が語られますね。信心を、おかげを受けておる事を。
 昨日、最近、十年位ここに疎遠になっておられました、大城の稲数の方から、稲数でしょうかね。中垣〔カツエ〕さんという方がこれから又おかげを頂きたい。それでその、敬親会にも出席させて頂きたい、というので、ま、昨日出て来られた訳ですけども。本当に今迄、十年間なら十年間という空白の御粗末御無礼を、今日ばっかりはしみじみ感じました、というてその、御無礼を感じた事を発表されました。
 大城の方ですから電車で、久留米、そしてずうーっと、その、乗物がもう一足違いに遅れたり又は別の車に二回も乗られたり、ようやくその、合楽に着かせて頂いて、その、おかげで時間には、早く来とったから間に合ったけれども。もうそのたんびんに、もうおもしろおかしう言うておられましたが。もうたんびんに御粗末御無礼の出あった事のお気付けをこんなにも神様がはっきり見せて下さった、という事をまあ、赤裸々にあの、お話をなさっておられました。ですからこれは確かにですね。合楽の場合は良い事悪い事につけ、はっきり神様の働きを見る事が出来るのですから、ね。
 どんなに願っておる事が成就しない、というても、それがなら、不成という事ではなくて、神の願いが成就しておる、と感じられる時は有難い、感じられるんです。ね。かと言うと自分の御粗末御無礼がはあ、この形になって表れておるんだ、と感じずにおれないように合楽の神様ははっきりしておられますね。だからそれが段々神様から心が遠のいておりますと、御粗末であろうが御無礼であろうがお気付きを頂いておろうが、それが気が付かんようになるから怖いですね、ね。
 だから私は、そういう時にこそ、それは不成の時ですから、ね。やはりそこに気付かせて頂いてお詫びをさしてもらう。お詫びの信心をさしてもろうて、そして願いある事を頼む、という事にならなければならんと思うですね。いうならば合楽の、合楽の場合ち限った事ないでしょうけれども。合楽理念に基づいてしておりますと、その辺のところが、ね。確かにはっきりしておるようですね。良いこと悪い事につけ神様が生き生きと働き現わして見せて下さる。それがお気付け頂きよると次から次と、こんなにも間違いなく頂く、という事になると、いよいよそれを感じずにはおられん。
 これからはこんな御粗末御無礼のないように心掛けます、というのが昨日中垣さんのお話でした。ね。お互いの中にもそれこそ、これは不成としてお詫びをしなければならない事があるのじゃないでしょうか。また、不成の事を、ね。神願成就しておる、という実感もなしに、ね。だだ、どうしていつまでもおかげが受けられんだろうか、といったような思いにかられてる人もあるのじゃないでしょうか、ね。
 だから、そういう思いそのものが不成の元を作るのですから、どこまでもその辺のところがすっきりと、ね、ね。おかげおかげと感じれれる、ね。それこそ右と願った事が左、になっても御礼の言えれる心の状態をいよいよ作らなければならんという事になります。どうぞ